
1992年の3月の終わり、大学4年を目前にした春休み
本当にめずらしく家でボーッとしていた
世の中はまだスマホどころか携帯電話も平野ノラのバブリーなでっかい携帯電話しかない時代
自宅の電話が鳴って出てみたら
「これから先生から連絡が入るから、そのまま待っててください」
大学の教授の助手の方からの電話だった。
そうした後に教授から電話がかかってきた
「藤井くん、教師になりたいんだったら子供にサッカー教えてみないか?」
教員を志望していた自分のことを先生は覚えていてくれた。
そもそも教員になりたかったのはサッカー部の先生になりたかったから
まだプロサッカーがない時代に真剣にサッカーに取り組む時間があるとしたら
教員になってサッカー部の監督をすることしか自分にはイメージなかった。
選手としてはまったく歯がたたなかったけど、
サッカーは好き。
そして子供が好きだったこともある。
先生に言われた通りの場所に行ってみたら「日産フットボールクラブ株式会社」
クラブ名は「横浜マリノス」だった。
話した相手は下條佳明さん(横浜マリノス強化部長、監督など歴任)だった
1992年4月に横浜マリノスというチームが誕生し、なんと自分も同じタイミングで
入団することになった。
まだ大学4年生だった自分は授業のない日に関わることになった。
最初に子どもたちのクラスを担当した時にメイン担当で一緒に活動したのが
樋口靖洋さんだった。
(マリノスはじめ数多くのJクラブの監督を歴任され、現在はFC今治のダイレクター)
選手として箸にも棒にもかららない自分がなぜかこんなすごい人たちと指導を始めてしまった。
多くの人にめちゃくちゃ迷惑をかけました。
マリノス追浜でスクールコーチとJYのアシスタントをメインに曜日によっては
マリノス新子安でスクールコーチとJYのアシスタントをする生活が始まった。
プレーで魅せられるわけでもなく、サッカーと子どもが好きというだけで、
知識やスキルもなく、ただただ若くて元気ということしかメリットがなかった。
それでも、多感なJY年代の選手たちからすると、監督、コーチの間に入った
ちょっと気のいい兄ちゃんくらいに思っていたんじゃないだろうか
この頃に出会った選手たちとの時間がその後の指導者人生にとって大きな財産になると
その時は夢にも思わなかった。
まだまだ小さいけど、すっごく上手で、何より誰よりも楽しそうにプレーする奴がいて
全体TRが終わった後に「シュート撃たせて!」
っていうから
GKしてゴールに入ってフリーキック受けてた
こっちもまだ20代前半だから身体動くし、 中坊には負けらんねぇと無気になって
やられたら「もう一本!」
止めたら今度は「もう一本蹴らせて!」
ただ、ただ、すごく楽しくてずっと繰り返してた。
そいつはユースに上がれなくて、当時まだ有名じゃなかった桐光学園高校ってとこに
高校生になって背が18センチも伸びて、自分よりでかくなって気がついたらU18代表とか
になって高校選手権でもヒーローになって。 マリノスに帰ってきた。
マリノスで活躍して、代表で10番つけて、海外でも活躍して、スーパースターになって
またマリノスに帰ってきた。
サッカー教室を開催した時に多くの子どもたちの前でFKの実演をした際に
久しぶりに自分がゴール前に立った。
中学生の時以来だから20年ぶりくらいに
あの時の中学生が日本中のサッカー少年の憧れになって
相変わらずめっちゃ楽しそうにボールを蹴ってくる
たまにこっちの動きや届く範囲を測って、自分がスーパーセーブっぽく
出来るボールも混ぜて花を持たせてくれたりする
その次に一歩も動けないようなシュートがくる(笑)
「やっぱり動きが綺麗だよね!」
こいつに言われると当時43歳のおじさんでもテンションが上がる(笑
一番好きなサッカー選手は誰ですか?と問われたら
迷わず「中村俊輔」と答える
私は本当に運がいい。
この運で出来たいい縁をいろんな人に伝えていくことが私の使命だと思う
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